続ピリギゃルが将棋倶楽部24で初段になる50の方法

将棋の全国大会に出場することになった成金アマの活躍やいかに

将棋ソフト論(4) ケアレスミスから遠く離れて

はてなブログ (略称:続ピリ将)

続ピリギゃルが将棋倶楽部24(将棋ウォーズ)で初段になる50の方法

~実力四段・五段を目指して(シュうぇッチマン全国大会の巻)~

将棋ソフト論(4)

 

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自己の機械化

 機械化が進むと、やたらと「人間」なる言葉が連呼されるようになるのは、どうしてだろう? おそらく不安の顕れと言ってよいのだろうけれども。

 もちろん、これは今に始まった話ではないだろう。たぶん産業革命・殖産興業・高度経済成長・技術革新等々、いつも、そうだったはず。将棋の世界だけではないが、人工知能(AI)やディープラーニングなどという概念と技術が入り込んできた今も、まあ、その1つのヴァリエーションだということはできるだろう。

 技術の進歩はめざましいが、人間が技術の進歩を捉える思考回路はそれほど進歩しているわけではない。

 なるほど、私シュうぇッチマンも「人間」ということを強く意識しているし、そういう固定観念に根ざした記事を多く発信している。けれども、同時に脱人間ということもかなり真剣に考えているつもり。それを含めて人間だ、と。

 私シュうぇッチマンが将棋に惹かれる理由は、簡単だ。文系的な甘々モードを将棋の理系的な辛々モードが打破してくれると同時に、理系的な辛々モードを文系的な甘々モードが揶揄するというような、往復運動が存在するからだ。

 もう少し簡明に一言で言い換えれば、数学的な要素だけの世界に、なぜか心理学的な綾やドラマツルギーが加わるところに魅力を覚える。

 突き詰められるはずなのに、突き詰められないもどかしさ。

 簡単すぎず、難解すぎず。

 要するに、これが将棋の魅力であると考えているわけだ。

 こういうふうに考えてみると、AIの出現は、コインの裏表のようなもので、歓迎すべき部分と、そうでない部分があると思う。コンピュータが必勝法を見つけ出してしまうと問題も大きいだろうが、現状ではまださまざまな初手を試しているので、ホッとする。むしろ将棋というゲームの奥深さを教えられるようで、感動すら覚える。

 また、ケアレスミスをしないということについては、人類も数世紀の歴史をかけて機械と親しんできた経験があるので、心が麻痺していて、感動するまでは行かないのだけれども、そうはいっても感心はさせられる。

 というのも、かつてはソフトが弱かった。1985年に発売された「内藤九段将棋秘伝」には、裏技があって、必勝法があって、楽勝だった。だから、コンピュータは弱いという先入観があった。ところが、いつからか、とんでもなく強くなった。私シュうぇッチマンはしばらく将棋から離れていたのだが、戻ってくるきっかけが2つあって、1つが柿木将棋、もう1つが将棋倶楽部24であった。まさに技術革新さまさまだ。

 そもそもプロ棋界においても、将棋のデータベースの出現が大きかったという歴史があり、今の世の中で将棋を指すということは、広い意味においても狭い意味においても、コンピュータと付き合わないという選択肢はおそらくない。それは将棋以外の世界を見ても、わかることで、今やコンピュータを使わずに仕事をしている人が、今の先進国内に何人いるのだろう? 1人? 2人?

 まあ、かなり原始的な議論をしているわけだが、わがシュうぇッチマンの実体験を振り返っておくと、柿木将棋とは寝る間も惜しんで死闘を演じた。ソフトごときに負けるはずはないと意地になったのだ。そういう意味では、実に幸せな時代だった。今なら最初から諦めている。アマチュアは先達で、プロが今、そういう段階に来ているのだろうと推測する。ともあれ、あの柿木将棋との格闘がよいリハビリになったし、ミスの少ない将棋へと自らを鍛えていくことにつながった。

 将棋倶楽部24の出現は、同じ棋力の人間と対戦できるという画期的な出来事だった。しかし、長く指し続けていると、疲労と精神的な消耗で、ミスが増え、負けが込む。結局、ソフトとインターネットによって、機械的な強さの必要性を教わったと言っていいだろう。

 人間というものは、必ずケアレスミスをする。ヒューマンエラーというものがある。ポカ。けれども、コンピュータにはそういうものがない。当たり前だが、これこそが、コンピュータの強み。「人間」ということを強調しすぎて、このコンピュータの強みに近づくことを諦めるのは、怠惰以外の何者でもない。人間も、一方ではコンピュータを見習い、倣い、ケアレスミスを極小まで減らしていく必要があるだろう。とりわけ生命がかかわる問題などではそうだろうし、将棋やテストなどでも、ケアレスミスは少なければ少ないほどいい。ケアレスミスを減らすというのは、現代人において、不可避の問題である。

 もちろん、そういったストレスを与え続けると、人間は病気になるのだが、コンピュータ的な特性を毛嫌いし、突っ張り、ケンカしすぎても、病気になる。だから、適度に付き合い、適度に突き離す。このバランスが重要になってくる。ただし、ここでいうバランスは、5:5ではない。このブログの根本理論である9:1である。

 自己を機械化して、ミスをしないサイボーグになろうとするときは、機械9の人間1だ。感情を消して、機械になりきることを私シュうぇッチマンは、トレーニングの各所で意識しているし、それをコンピュータから学ぶことに貪欲である。

 けれども、常に「機械9の人間1」というのでは、人によっては息苦しすぎるだろうし、人によっては居心地がよすぎるだろうから、よろしくない。私シュうぇッチマンが「人間」というときは、こういうときの柔軟性・休憩力・総合力を指す。

 意外なことに、機械的人間というのは、かなり大量にいる。しかし、機械的人間の大半はポンコツである。本物の機械と比べたら、かなりのポンコツぶりだ。もし、機械と人間を等し並みに人事評価したならば、多くの機械的人間はクビだろう。これは悪い洒落ではない。もうすぐ現実となるはずだ。われわれ人間が、ディープラーニングを制御できなくなる日は、もうすぐそこまで迫っている!

 暴走が過ぎた。ご託はいいので、すぐに役立つ情報をくれ。はい。そういう向きには、柿木将棋との激闘の経験から得た結論を1つ、教えよう。

 「待った」をせよ、と。

 将棋で「待った」は、御法度。対局中に絶対にしてはいけない不文律の頂点に君臨する禁則だ。

 しかし、と耳打ちをする。「ソフトとの対局においては、『待った』をするのも非常に勉強になるよ。」と。

 トレーニングや練習においては、失敗はつきもの。だから、積極的に「待った」をして、真理を追究することは、非常によいトレーニングになる。

 昔、柿木将棋には勝てると思っていたし、事実、勝つこともあった。奴との激闘期の後半では、積極的に「待った」をして、何度もやり直し、勝つようにしていた。

 負けるとストレスになるのは、男も、女も、同じ。人間だもの。

 ただ、「待った」の回数は、徐々に減らしていこう。待った癖がつくのはよくないからね。

 ちなみに、これは将棋以外のトレーニングにも取り入れることができる。「待った」というのは将棋の概念だが、他のジャンルや分野にも積極的に、爆発的に広めたい概念の1つだ。

 事実、本業のコーチ業でも、練習では「待った」し放題のメニューと、1回の「待った」だけは許すメニューと、本番仕様で「待った」なしのメニューと必ず3種を用意している。

 

ケアレスミス防止トレーニング 

メニューの例

 

絶対条件:ノーミス=完璧に近い棋譜を作り上げること。

 

1日目

ソフトの棋力 自身の棋力-2段(級)

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 なし(無限回)

 

2日目

ソフトの棋力 自身の棋力-2段(級) 

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 10回以内

 

3日目

ソフトの棋力 自身の棋力-2段(級) 

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 5回以内

 

4日目

ソフトの棋力 自身の棋力-2段(級) 

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 3回以内

 

5日目

ソフトの棋力 自身の棋力±0(級) 

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 3回以内

 

6日目

ソフトの棋力 自身の棋力±0(級) 

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 1回以内

 

7日目

ソフトの棋力 自身の棋力±0(級) 

手合い ソフトが上手の二枚落ち

待ったの回数制限 0回