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続ピリギゃルが将棋倶楽部24で初段になる50の方法

将棋の全国大会に出場することになった成金アマの活躍やいかに

勝負論(1) そもそも勝負事に向かない日本人

はてなブログ (略称:続ピリ将)

続ピリギゃルが将棋倶楽部24(将棋ウォーズ)で初段になる50の方法

~実力四段・五段を目指して(シュうぇッチマン全国大会の巻)~

勝負論(1)

 

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勝負に向かない人

  

 もし、変身ベルトがあったら、ゲルマン民族か、スーパーサイヤ人か、ポナンザあたりになりたいかも。

 

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 出典:株式会社ワコールの意識調査

 

plaza.rakuten.co.jp

 

 武道・相撲道・茶道・華道・棋道。

 そもそも「道」というものにこだわりすぎて、勝負事に向かないのが日本人。

 たしかに、ありがちな議論だが、説得力はかなりあると思う。旧ブログでは儒教による洗脳を批判したことがあるが、それとも関連がある。

 高校野球の松井敬遠事件にしても、囲碁棋聖戦のダメ詰め事件にしても、将棋電王戦のバグ突き事件にしても、少なくとも世論(というより、外野のギャラリー)を見渡すかぎりにおいては、「勝負」というものの本質が分かっていないと思わされる議論が多すぎる。坂口安吾が、宮本武蔵を「戦う武蔵」と「悟る武蔵」に分けたような思考法が足りないのだ、と言い換えてもよいだろう。

 日本人という括りの他にも、職業や性差などによって、勝負事に向かないと言われる括りもある。

 たとえば、教師は勝負事に向かないのではなかろうか。教育というものに携わっていると、どうしても競争原理から置き去りにされる。また、ある意味、負けてあげるのも仕事になりがち。子どもに対して負けず嫌いを発揮しても、大人げないと批判されるだろう。

 だから、もし教師で真性の勝負師という人がいたら、もちろん例外はあるだろうけれど、やはりその人は教師失格なのでは、と議論は進む。トーナメントプロとレッスンプロが厳然として違うのは、そこ以外にないと思う。前者は妥協がないが、後者は妥協のかたまりだ。(だからといって、後者がプロでないわけではないのだが、そこを理解できない一般ピープルの無知も問題。)

 女性も、基本的には勝負事には向いていない。やはり女性は子育て等において、男性にはない優しさを持っていることが多いから。

 もちろん、これはある種の幻想であり、例外もたくさんあって、女性だから全員がいつも優しいなどと一般化できるかと言えば、そんなことは断じてない。冷血な鬼嫁、残虐な鬼母、醜悪な鬼婆を見れば、すぐにこういう俗説は引っ込むはず。事実、女性どうしの殴り合いを目撃したこともある。

 しかし、そうはいっても、囲碁・将棋の世界に限っていえば、スポーツと違って、男女で何らハンディがないにもかかわらず、男性が強い。もちろん、社会的な諸問題が背景にあるし、将来のことは不明ながら、とりあえず、今日の現実であることは確かだろう、と。

 誤解しないでほしいが、私シュうぇッチマンは、別に差別を煽ったり、助長したりしようというのではない。むしろ、逆。

 強い教師、知識がありすぎるほどある研究者レベルの教師がいても結構だし、強い女性が現れることについてはむしろ待望、熱望しているくらいだ。日本人離れした日本人というものにも、もっともっとお目にかかってみたい。

 つまり、陳腐な日本人論や薄っぺらいヘイトスピーチの類いとは距離をうんと置き、訣別したいとさえ願っている。

 ただ、だからといって、「誰も彼も勝負師」というはずはないのだし、「みんなが皆、勝負事にはまる」わけでもないだろう。言いたいのは、ただ、それだけのこと。外国人でも、男性でも、非教育者でも、レッテルにかかわらず、勝負事を好まない人は、大勢、いるのではないか、と。

 勝負事とは、非情に徹すること。非情に徹すると聞くと、かなりイメージが悪いから、それだけで敬遠してしまう。そういう人は、べらぼうに多いと推測する。

 だから、勝負師はまず、こうした問題を根本的、哲学的に解決しておかないと、いくら技術を学んでも、勝負で勝てるようにはならない。

 「非情」とは、訓読すれば「情にあらず」。ただ、それだけのこと。つまり、感情以外にフォーカスしようという意味に過ぎない。

 一万円札は、ただの紙。対戦相手は、ただの肉と脂肪のかたまり。外野の野次は、ただの空気の震え。

 ところで、夏目漱石の「草枕」に「非人情」という言葉が出てくる。それに惹かれたカナダの変人ピアニストであるグレン・グールドが弾く「ゴルドベルク変奏曲」などは、まさに「非人情」、言い換えれば己のイデアに忠実な演奏であろう。

  

 

 「道」以外に、周囲に流されやすいという特徴も日本人にはあるようだ。

 

《山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。》

 

 漱石の「草枕」には、冒頭からすでに「情に棹させば流される」と書きつけてある。冒頭からしてすでに、知情意の三角形が、見事に定着される。

 将棋に限らず、勝負事、あるいは画工のように芸術の世界で生きるということは、どこかで非情に徹する部分が必要だ。そして、それは悪いことではないという自己暗示を徹底的にかけていかなければならない。

 事実、非情に徹することは、冷静さを手に入れることができるし、客観性を手にすることができるし、何より結果を重視することにつながるのだから、よいこと尽くめだ。

 受け将棋の私シュうぇッチマンが高い目標とする棋士に、大山康晴十五世名人と、永瀬拓矢六段がいる。彼らは数ある棋士の中でも、非人情な棋士

 たとえば、永瀬六段の名刺のエピソードが、微笑ましくて、好き。名刺を作ったはいいが、もったいないから配らなかったという。

 こういった棋士が、一円、歩一枚、一手たりとも無駄にしないことは想像に難くない。

 実際、電王戦でまさに勝負に徹してバグ突きの不成を指して勝ったし、史上最年少プロ・藤井聡太四段との七番勝負でも唯一の勝ち星をあげている。

 将棋ウォーズで、プロキラー「自爆王」を相手に、完膚なきまでに受け勝っている動画もある。未見の方は、必見。かつてNHK杯で佐藤九段相手に千日手を連発したことも想起しておけば、いかに勝負の鬼であるか。鬼軍曹であるか。おのずと明らかだろう。

 


将棋ウォーズ 永瀬拓矢VS自爆王 3分切れ負け

 

 さすがに日常生活に至るまで、24時間365日、非情なのはよろしくないが、勝負に関するかぎり、非情に徹することは、科学的な態度として実は好ましいことなのだと、肯定しなければ先へは進めないだろう。

 というより、私たち日本人は比喩でいえば、草食動物、あるいは植物であって、肉食動物では決してない。疑似肉食獣はいるかもしれないが、本物のゲルマン民族でないことは自明。あっちの人種の肉の食べ方は、飛角、もとい比較にならんよ。

 だ・か・ら。

 たまには、非情というか、ローコンテクスチュアルな生き方をした方がいいと思うわけ。そして、将棋は、まさにそれに最適なゲーム。

 子どもを甘やかしてばかりいては、成長しない。突き離すことも時には必要。例外はあろうが、基本的にはこれと同じリクツだと思うのだが、いかが?

 グッバイ、温暖湿潤気候!

 

【本日のまとめ】

・時に非情になることは、よい側面もあると自らに言い聞かせよう。

   

永瀬流 負けない将棋

永瀬流 負けない将棋