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続ピリギゃルが将棋倶楽部24で初段になる50の方法

将棋の全国大会に出場することになった成金アマの活躍やいかに

勝負論(3) 君はキモい棋士になれるか

はてなブログ (略称:続ピリ将)

続ピリギゃルが将棋倶楽部24(将棋ウォーズ)で初段になる50の方法

~実力四段・五段を目指して(シュうぇッチマン全国大会の巻)~

勝負論(3)

 

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機械になるのは大変だ

 変身して機械になった。しかし、相手も機械だった。千日手になった。しかし、相手は千日手での引き分けを認めない。よって、延々と指し続けるハメに。

 いっそのこと、こっちが大人になって、投げようかとも思ったが、それでは相手の思う壺。それに、こっちは機械なのだから、そんなことを考えてはいけない。無私の境地。反復を厭わない。

 途中から数え始めたが、49回は同じ手を指し続けた。根比べだったが、ついに向こうが手を変えた。その後は、こちらの勝ち。

 相手も相当に病的でやばいやつだったが、これが勝負というもの。「普通」や「常識」を戦場に持ってきてはならない。

 

千葉雅也『勉強の哲学』を読む

 さて、これまでの流れからすると、千葉雅也氏の新刊『勉強の哲学』に言及しないわけにはいかないだろう。

 「勉強とは変身である」「勉強とは自己破壊である」との断言が、私シュうぇッチマンの主張と奇妙なシンクロを見せているからである。「言語偏重のラディカル・ラーニング」だって、基本姿勢が不思議なほど似通っているだろう。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

 断っておくが、『勉強の哲学』の存在を知ったのは、一連の記事を書いた後の新聞広告によってであるから、『勉強の哲学』を読んで、しかる後に、私シュうぇッチマンの変身論が誕生したわけでは決してない。こうして言及することになったのは、まったくの偶然である。

 そもそも、私シュうぇッチマンは、まったく別の文脈から自身の変身論を生み出した。(私シュうぇッチマンと千葉さんが同一人物説も出ているようだが、千葉さんはたぶん将棋を指さない。たしかに将棋の比喩はあったので、ひょっとしたら指すのかもしれないが、どっちにせよ別人だし、千葉さんにあまりにも失礼なので、ばかばかしい憶測だけれども、一蹴しておく。)

 ところが、自身のオリジナルの変身論であると言おうと思って、はたと気がついた。千葉さんも、私も、ジル・ドゥルーズの愛読者であることを。うーん、哲学とは、なんとおもしろいものであることか!

 

動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学
 

 

 もし考え方に似た部分があるとするなら、それは同一人物ではないが、思想的な兄弟みたいなものだからなのかもしれない。

 別個のものとして差別化しようと思って書き始めたが、同じドゥルーズ由来の勉強哲学ならば、別に同じであっても構わないのではないかと、考えを改めるに至った。

 「勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。」

 たしかに、そのとおり! 

 たとえば、私シュうぇッチマンは、機械になることを提唱した。「機械になる」というと、どうしても嫌なイメージがあるにちがいない。しかし、「『機械になる』ことが嫌だ」というイメージ自体が、刷り込みかもしれない。ある環境における1つのノリに過ぎないのかもしれない。

 私シュうぇッチマンが千葉さんと同一であるとみなされることが嫌だという命題についても、同じことだ。「自分らしくあること」という、ある種のアイデンティティ神話に毒されているだけのことである。

 1つだけ付け加えるなら、脳が嫌がることをやることが進化の極意。筋トレをしていると、脳が「キツイからやめようよ」、「危険だからそのくらいにしておけ」などと言い出すが、それを無視して続けることが筋力アップにつながっていく。

 筋トレといえば、増量期と減量期の話題が興味深かった。筋肉と脂肪をともに身につけてから、脂肪を落としていくという2段階のプロセス。

 将棋でいえば、居飛車振り飛車も両方指せるようにしておいて、1つの戦法に特化していくことに対応するだろう。

 あるいは、アイロニーとユーモアとナンセンス。いや、将棋そのものではないか。

 大学院でハイデガーを専攻する糸谷先生を引き合いに出すまでもなく、将棋と哲学は相性がよいと思われる。

 この風変わりな勉強に関する書物を、今後、将棋にどう応用できるか、新たに考察する材料ができたことを歓迎したい。

 このブログの読者であれば、この本を楽しめると思うし、この本を読めば、このブログも楽しめると思うので、一読をおすすめする。