続ピリギゃルが将棋倶楽部24で初段になる50の方法

将棋の全国大会に出場することになった成金アマの活躍やいかに

上達するための箴言集・格言集(0031)コーチングとは、アー

はてなブログ (略称:続ピリ将)

続ピリギゃルが将棋倶楽部24(将棋ウォーズ)で初段になる50の方法

~実力四段・五段を目指して(シュうぇッチマン全国大会の巻)~

上達するための箴言集・格言集(0031)

 

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0031 コーチングとは、アートである。

 

 「コーチングとは、アートである。」

 

 i

 

 かつてラグビー最弱国と言われた日本代表が、大躍進を遂げたのは記憶に新しいところ。

 だから、ラグビーのことを知らない人でも、五郎丸選手の名を知らない人はいないでしょう。

 こうした急成長の背景には、必ず名コーチの存在があるというのが、私シュうぇッチマンの持論です。

 ラグビー日本代表に関していえば、ヘッドコーチであるエディ・ジョーンズの存在がやはり大きい。

 「コーチングとは、アートである。」

 この一言だけで、私シュうぇッチマンなどは、痺れてしまいます。

 

 

 そもそも「〇〇とは」という定義文において、日本人の答えは真面目すぎて、意外性に欠ける傾向が強い。

 ところが、海外のコーチは、ユーモアのセンスがあるし、ウィットに富んでいて、楽しい。

 日本も芸人さんがこれだけ受け入れられているのだから、コーチ界でも、もう少し何とかならないのかと常日ごろ思っていたのですが、この一言で、原因がはっきりしました。

 アートの不在。

 私シュうぇッチマンは、教え子には必ずお笑いを要求します。

 ただし、一発芸や下ネタのような他人を不快にする下品なものではなく、上質な笑い。

 ピリギゃルも例外でなく、謎かけをよくやらせています。

 

  ii

 

 この前、知り合いの中学校の先生が不機嫌でした。

 お話をうかがってみると、「主要五科目」という言い方が癇に障ったとのこと。

 その先生は、美術の先生なのです。

 美術教育に一生懸命とりくんでいらっしゃるのですが、どんなに頑張っても「主要五科目」という言い方には勝てないと感じているようでした。

 日本では美術は、美大を除いて、受験には出題されません。

 レオナルド・ダ・ビンチも、ロダンも、モネも、ゴッホも、ピカソも知らないという人でも、東大へ行くことができます。

 実際、運慶も、雪舟も、若冲も、広重も、北斎も、大観も見たことがないという日本の大学生は、かなりの数に上ることでしょう。

 美術は、高校以上だと、必修科目ではなく、選択科目。

 こういう制度上の問題が、ある種のヒエラルキーを構成してしまっています。

 どうしても国数理社英が上で、芸術や体育、技術家庭が下と見なされがち。

 が、これはどう考えてもおかしなことだと、腹立たしく思います。

 〈受験に出る=大事かつ必要,受験に出ない=小事かつ不要〉

 こんな愚かしい図式があったものだろうか!

 私シュうぇッチマンも、その美術の先生ほどではないかもしれませんが、憮然としてしまいます。

 必選の区別も、同様。

 選択ということは、甲乙つけがたいくらい大事だから、選ばせるわけです。

 音楽も美術も書道もその他の芸術も、どれが格上などとは決まっていません。

 だから選択する者の意思を尊重する。

 もっというなら、芸術の小さなジャンルは選べるけれども、大本の芸術は不動の地位を占めていなければならないはずなのです。

 ちなみに、その後の教育談義は、次第に、美術の先生よりも、私シュうぇッチマンの方がエスカレートしてきました。

 教科化されていない芸術科目や外国語科目に話題が及んだからです。

「たとえば、私シュうぇッチマンが愛してやまない演劇や映画がどうして日本の教育システムに組み込まれていないのか。

 これだけコミュニケーション能力が取り沙汰されているのに、日本には国立の演劇大学が存在しないとは、これ如何に。

 英語ばかり偏重されて、かつて文化の中心であったフランス語が蔑ろにされるのはどうしてか。

 隣国の朝鮮語や中国語の学習に消極的なのは、なぜ?

 アイヌ語のような絶滅危惧種の言語についての議論が巻き起こらないのは、異常だ。

 体育も、狭義のスポーツだけでなく、老人になっても役立つリハビリやレクリエーションなどの健康科学の分野をもっと充実させる必要がある。

 弁論や討論の授業もほしいし、お笑いの授業も必修科目だろう。

 美容やファッションも、とっても大事だし、食いつくはずだ。

 そして、何より、もっと将棋を教育に取り入れようではないか。」

 

 iii

 

 梅雨だから、なのでしょうか。

 最近の私シュうぇッチマンは、話が拡散しやすい傾向にあるので、元に復します。

 日本のコーチングがダメな理由は、アートが不在だから。

 こういう論点から脱線したのでした。

 

 「選手一人ひとりにとって、何が必要なのか、それを見極めるのがコーチングにおける『アート』なんです。選手個々の能力を引き出すためには、どのようなコミュニケーションを取るべきなのか。それこそ数限りないケースが考えられるわけです。その見極めにこそ『アート』が生まれる余地があります。」

 

 エディ・ジョーンズは、このようにしてコーチングにおける「アート」を説明しています。

 つまり、ここでいう「アート」とは、「無限の可能性」という意味なのでしょう。

 これは「アート」自体の定義としてもすばらしいし、「コーチング」の定義としても完璧だと思います。

 しかも、そこには「楽しむ」という含意もある。

 私シュうぇッチマンはかつて勉強が大嫌いだったが、勉強も遊びの一種だと捉え返すことによって、つまり〈勉強/遊び〉という二項対立を解体することによって、勉強が好きになったという経験を持っています。

 たとえば、将棋も勉強が必要ですが、将棋の勉強を苦行のように捉えていては強くなれません。

 勉強することと強くなること、そして楽しむことは、二者択一ではないということ。

 これを知らなければ、私シュうぇッチマンが意図する将棋上達法には、いつまで経っても到達できません。

 山登りには、さまざまな手段やルートがあるのに、決まったコース(「距離が最短である」「最も安全である」等々)を強制すると、それは「アート」でなくなり、つまらない塗り絵のようなものになり下がってしまいます。

 いや、誤解なきように、急いで付け加えますが、塗り絵も立派な「アート」です。

 ただ、「お日様には黄色を塗りましょう。」となると、それはもはや「アート」ではないでしょう。

 ある時はお日様の色は青かもしれないし、ある子どもにとってはピンクかもしれないのに、それを指導者が決めつけてしまったら、その指導者はコーチの名に値しないし、その行いを「コーチング=アート」と呼んでほしくないですね。

 将棋の強くなり方も、おそらく多種多様、その人に合った強化策があると思います。また、それぞれのプロセスがあり、それぞれの物語(ドラマ)があっていいのではないでしょうか?

 やれ詰将棋が万能だとか、やれ初心者は四間飛車を指せだとか、そういう押しつけがましいのは、軍隊的なので、アーティスト・シュうぇッチマンの好みではありません。

 もちろん、我がシュうぇッチマン・メソッドは、多くの人を救うメソッドだと信じてはいるものの、万能ではないかもしれませんし、合う/合わないは当然あると捉えています。

 ですから基本的にはヒント集だと思っていただけるとありがたい。

 1つだけ確かなことは、我がシュうぇッチマン・メソッドは、さまざまな個性の芽を摘まないように、なるべくバラエティに富んだ道行きを保証しているという点。

 我がシュうぇッチマン・メソッドを取り入れて下さる方のブログを拝見しても、それぞれの個性や棋力、目標に合わせ、独自のアレンジを加え、試行錯誤しながら実践してくださっているようで、目を細めつつ、あたたかく見守らせていただいています。

 

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